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ばんごはん何時

140文字で言い切れないなと思ったこととか、ただのぼやきとか。

「私たち」になれないかもしれない「彼女たち」のために

twitterを見ていると、本当にいろんな人がいるなと思う。私は特に決まったカテゴリの人たちをフォローしているわけではないし、それぞれに合わせた専用アカウントを作ろうという気もない。もちろん自分の活動を宣伝したりするが、基本的に娯楽ツールとしてのポジションだ。

twitterのおもしろい所は、各カテゴリのマイノリティの人たちの言葉がすぐみつかることだ。中には本当に理不尽で、かわいそうな扱いを受けている人もいるが、とりあえずは感情に流されない程度にいろいろな意見を見てみて、そこから自分はどうか判断することにしている。140という文字数はこういうマイノリティな意見を言うにはかなり少ないので、どうしても感情が先行してしまいがちなのだ。

 今年の夏、甲子園のグラウンド練習に女子マネージャーが参加した際、マネージャーがグラウンドに上がるのは危険であるという理由で退場させられたというニュースが話題になった。

mainichi.jp

(報道時の記事が出なくて止む無くこちらの記事をリンクした)

このニュースを見たときは、ざっくりと「単純にややこしくしたくないし、試合前にどこかが事故で壊れちゃったり、もしホントに怪我しちゃったりしたら対応がめんどくさいっていうだけだろうな」と思った。しかしこのニュースは、ネットでは結構な話題になっていたのでびっくりした。理由は、退場させたマネージャーが「女子」だったからだろう。

男はすぐ「女なんだから」って言いやがって。

個人的な見解では、マネージャーが男だろうが女だろうが事故になったらその後の対応が大変なので、単純にグラウンドに上げる人の絶対数は少なくしときたいというリスクヘッジだったのでは?と思うのだが、こちらに大きく反応したのはインターネット上のフェミニスト達だ。「女子のマネージャーを危ないという謎の理由で退場させるっておかしいのでは?危ないからって言うけどそこに理論的な理由ってあるのかよ?ま〜たアンタ達おっさん集団は「女はこういうもの」という押し付けをするのか、時代遅れでホントにセンス悪いな。」という反応が大多数だった。このような意見を見たとき、私も「確かにそうとも言えるかも?」と思った。

そもそも野球というもののイメージ自体が、「巨人の星」の世界そのままで止まっているフシがある。巨人の星の演出において、星飛雄馬の姉・明子の存在は無くてはならない存在だ。頑固一徹で死に物狂いで努力する主人公に、「がんばって」「体を大事にして」といった目線でか弱い女の子が木陰でそっと涙を流す。明子姉ちゃんは「飛雄馬の姿を見てると、こんな気持ちになることもあるよね。漫画やテレビの前のみんなも一緒に、飛雄馬を応援しよう」というパイプ役を担っているのだと思う。

ときは流れて、「巨人の星」が大ヒットから今や野球男子のバイブル的な存在になっているが、さすがに明子姉ちゃんの様な女性は絶滅危惧種であろう。「星一徹、それはどう見ても虐待でしょ・・」とか、がむしゃらに鍛え倒す星飛雄馬にも「いやいや、いくら頑張ってるって言っても流石にやりすぎでしょ」と木陰から飛び出してツッコんでくるお姉ちゃんがリアルだ。(個人的には、そもそもこの漫画がヒットした時代でも女性のほとんどが明子姉ちゃんタイプだった様にはあまり思えないけど)オープニングであんなに頑張っていた兎跳びも、足への負担が大きすぎるということでずいぶん前に禁止されてしまっている。しかし未だに一般的にイメージされる「野球男子」の世界や美徳が、昭和のまま止まってしまっているのはなぜだろう。そして、「みんなで飛雄馬を応援しよう」というチアリーダーだった明子姉ちゃんが、「時代遅れな男が言う「女とはこう」という決めつけの最たるもの」のモデルになっていることも。

 

日本男児たるもの、乙女らのヒーローでいなくては(ドヤァ)

フェミニスト達は、「いい女とは、巨人の星の明子タイプってどういう価値観よ?そもそもなんで男に「女とは」なんて言われて、品評されなきゃなんないわけ?男って何様なのさ?」という意見が多いのだが、この「野球男子」にはもう一つ気に入らない点があるのだ。それは「か弱き女に心配させてる・・俺(恍惚)」「女の子は弱いから、守ってあげないと。危険から回避してあげないとと思う・・俺(悦)」というナルシズムがかなりはみ出ている様に見えるからである。(セリフに古臭い演出を施させていただいた。)私を含めて大体の女の子は、「キモ!そんなこと頼んでねーし!」とビシッと切り捨てたり、ドン引きしてもう関わるのをやめるであろう案件である。(ちなみに私は後者。めんどくさそうなものはさっさと切る。)

それでもこのイメージが消えないのはなぜか。女子マネージャーの存在だ。

 

頑張ってるあなたをサポートすることを頑張りたいの。

「男子運動部の女子マネージャーって、ホントは競技やりたいんでしょ?自分が選手やればいいじゃない」という意見はたまに耳にするが、私はそうは思わない。彼女達は「自分じゃない、頑張ってる男の子(ほとんどが片思いの相手なのだが)を応援したい!支えたい!」と思う女子なのだ。その気持ちには「彼女になりたい!」という下心がかなりを占めていても、少なくとも男の子を陰で支え、尽くすことが美徳であるという精神の元、大量のおにぎりをこしらえたり、臭いタオルを洗濯したりするのだ。部員達には「ありがとう」と言われる見返り付きだから、やりがいもかなり感じられるだろう。上記の様な、だいたいの現代女性には理解できない男の子のナルシズムも、マネージャーは苦痛とは思わない。そもそもそういう男の子がタイプだし、応援することが好きだからだ。

 

同性だからこそ起こるかもしれない暴力

フェミニスト達の価値観と女子マネージャーの価値観が、なんだか正反対な気がしてきたぞ。改めてフェミニスト達の意見を目に通してみると、仕切りに「女vs男」観点だ。(フェミニストなんだから当たり前だけど)彼女達はリベラルでとても口が立つのだが、どうも「女は全員こう思ってるんだよ!」と言っている様な筆圧だ。この筆圧と、インターネットの同調具合は少し怖い。「あなたは違うの?!」とか、「まだ男の美意識なんかに従ってるの?だからあなたは男にナメられるんだよ!」という押し付けが、同性の中で起こってしまいそうだからだ。マネージャータイプの女性が、フェミニストの女性に意見するほどのスキルと哲学はあるのだろうか、私はほとんどの人が無いと思う。

この記事を読んだフェミニストの方々は「そんなこと言ってないよ」と思われるかもしれないが、正直に言うと、言葉のチョイスの節々でそういったマネージャータイプの女性を否定している様に見えてしまう。違う美徳を持っている女性がいることにあまり注意を払わずに「女は全員こう思ってます」という顔で話さないで欲しいのだ。この女子マネージャーのニュースで、インターネットの上で「女は全員こう思ってる!」というような言い方の女性に、自己否定をされたような気がしてショックを受けた女性達は思った以上に沢山いると思うから。

 

(女子マネージャータイプの女性を「こういう女は嫌いなんだよ」といって話すのは、また違った話だし、そういう意見の一つだと思う。かく言う私も、女子マネージャータイプへのdisツイートはした。)

食い物にされる自然派ママ

数週間前、twitterで「#自然派ママの新常識」というハッシュタグが流行した。ここで言われる自然派ママとはざっくりどんな人々かと言うと、オーガニックやホメオパス信者で、子供の健康を心配したり、アレルギーなどで辛い思いをさせたくない、という気持ちから健康食品や民間療法を生活に取り入れだし、いつのまにやらそれが謎のトンデモ療法信者になってしまったお母さんたちの事だ。具体的にどういうものか、気になる方は是非ググっていただきたい。

「#自然派ママの新常識」を付けたツイートは後半になると、そんなお母さんたちにありそうな話という大喜利大会になった。私は以前からtwitterでこの様な「自然派ママ」や「オーガニック至上主義者」の事は度々disっていたので、もちろん参加した。

 

facebookは自然派ママの駆け込み寺か

twitter2ちゃんねるではdisとあざ笑いの的となった自然派ママだが、facebookでは違う反応だ。

 

toianna.hatenablog.com

 こちらの記事をシェアした誰かの投稿を、また誰かがシェアだかいいねをしただかで、私のTL上にも上がってきた。facebookは2016年の1月から「いいね」のボタンに細かく感情を表現することができるようになっている。これによって、コメントするほどでもなかったり、言葉にはできないけどアクションはしたい場合、その記事に何かしらの反応をすることができる。たとえそれが、悲しみや怒りの反応でもだ。(なのでfacebookは「いいねボタン」の改名したほうがいいよね、ほんと。)注目すべきはこのシェア投稿への「いいね」の感情の種類が、怒り顔と泣き顔が多くを占めていたことだ。twitter2ちゃんねるとは真逆で、「笑い者にして、ひどい!」とか「そんな事言うなんて悲しい」といった意見も見て取れる。facebookは一般的にインターネットではdisられている「自然派ママ」自身が主に反応しているのだろう。

 私自身はそもそも、初めから「自然派ママ」や「オーガニック至上主義者」を毛嫌いしている立場ではなかった。やりたいことは勝手にやればいいし、人それぞれである。ではなぜここまで嫌悪感を抱いているのかというと、彼らの選民思想や、至上主義的考えを感じたり、実際に受けたりしたからだ。3.11以降、オーガニッカーの気性の荒さとトンデモ具合はかなり上昇している気がする。もちろん東北の震災や原発事故はとてつもなく大きな事件だ。でも、だからこそ、パニックにならずに冷静になるべきではないのか。このパニックやトンデモをさらにヒートアップさせているのは、facebookのシェア文化が大きく加担している様に思う。

facebookに生息するオーガニッカーたちはとにかくシェアが大好きである。ネットサーフィンの中でたまたま見つけたブログの一記事でピンときたらそのままなんでもだ。記事を読んで直感的に自分の意見と合ったりしたものを反射的にシェアしているようにみえる。facebookはシェアするときに自分の意見をつけて投稿することができるのだが、この「自分の意見付きシェア」をしている人がとても少ない。ブログ記事のスクラップブック的な感覚なんだろうと思う。しかし恐ろしいのは、そのシェア元記事を書いているブロガーが普段どんな記事を書いていて、どんな思想を持っているかということを完全無視している傾向がかなり大きいことである。

極端な例えだが、狼少年の近所に住んでいる人間はもちろん狼少年のいう事は信じない。しかしたまたま狼小年の住む街にきた旅行者ならどうだろう、信じてしまうかもしれない。シェア文化の怖いところは、例えばこの狼少年がたった今親切にしてくれたと感じたら、即座に「この少年、めっちゃいい奴」と拡散できる所だ。

 

テレビの価値って、まだそんなにあったんですね。

基本的に自然派ママやトンデモオーガニッカーたちは情弱である。「テレビでは報道されていない事がこんなにもインターネットには載っている!インターネットに真実がある!」という考えは随分時代遅れだ。こんなに簡単に名もなき一般人が記事を書けるのだから、むしろテレビよりもホントかどうか怪しい情報が多いし、疑っていったほうがいいのに、インターネットへの信頼度は異様に高い。なぜそんなに信頼してしまうのかというのは、やはりにじみ出る「口コミ感」だろう。メディアの放送よりも近所のオバちゃんがする噂話のほうが身近でリアルなのは昔から変わらないのだ。

 

自然派ママやトンデモオーガニッカーよりも嫌なもの

さて、ここまで言って結局何が言いたいのかというと、私は単純に「自然派ママ、プギャー!」をしたいわけではないのだ。そんなことならtwitterで事足りるのだ。(してるのかよ)一番嫌悪なのは、こういう情弱だったり、健康に不安を持っている人に怪しいコンテンツを吹き込んで金を稼いでいる奴の匂いがプンプンするからである。少し前にfacebookでオーガニッカーの神的存在だった某医師なんかに代表されるが、こういう人々はとにかく口がうまく、どこがソースなのかはわからないデータや研究結果などを巧みに引用しているのが特徴だ。「こういうものをチェックしている私はあなたたちより賢く教養があるんですよ」という態度を全面に押し出し、次にとにかく不安を煽る。中には人格否定レベルの派手なものや、宇宙人がどうとかといったまさにトンデモなものまでさまざまだ。しかし最終的には「これに気づいたあなたたちは、もう大丈夫だよ」と優しく抱きしめてくれる。どう見ても新興宗教や詐欺師の手法である。そこそこのフォロワー数を手に入れると、「あなたたちにもっと幸せになってほしい」といった「あんたに私の何がわかるのさ?」と言いたくなる様な理由で高額なセミナーや通信販売を始める。彼らは実際とっても商売上手な人々なのだ。

健康食品の販売や、ノウハウを伝授して金銭を手に入れる事について嫌悪感を抱いているのではない。人に言えなかったり、わかってもらいにくい悩みや、過去の挫折や不安につけこんで金儲けをするセンスの悪さに嫌悪なのだ。そして大抵そういうビジネスのキャッチコピーやスローガンは「じぶんにも人にも優しくしよう、みんなでいっしょに健康的になろう」といった意味合いのものだったりする。そっくりそのまま言ってやりたい。「人の弱みにつけこむ商売をする人間こそ、健康的になってくれよ」と。

 

(これらのツイートから言いたくなりました)

 

140文字で満足しなかった

はじめまして、はじめました。

インターネットに初めて触れたのはいつだろうと思うと、もう相当前である。個人ホームページやブログ式のSNSで、大してパッとしない日記を垂れ流していた10代も終わり、サクッと書き込める手軽さからtwitterをヘビーユーズするようになったけれど、いよいよ自分の言いたいことや思ったことが140文字に収まらなくなってきた気がするのでブログをやることにした。歳を重ねるということの実感は、私にとっては「口数が増えること」のようにすら思える。

二十代後半にも差し掛かると、それまでは遠い場所にあると思っていた事が意外と近くにあったり、下手したら責任がのしかかる事だったりしてきた。いままで「大人がやるもの、考えるもの」の「大人」になってきたんだなと、成人した時なんかより数倍も「大人」にぶち当たっている気がする。そういう実感をするたびに、「じぶんの言いたい事くらいじぶんで言えるようになっときたいな」という気持ちをひしひしと感じる。

正直自分自身で「物をちょっとだけよく考えたり、ちょこっとうるさく言ったりする」事に魅力を感じないタイプだったし、そういうことに対するおこがましさみたいなものをずっと感じていた。なんせ私は中卒の「ザ・低学歴」、仕事は低所得のクリエイター系という「うさんくささ」まで持ち合わせている。おまけに体は複数の刺青、でも非行やヤンキーの経験はゼロで、そういう交友関係も一切ない。自分のちょっと興味がある事を何も考えずに手を出していたら、他人からすると「意味のわからない人間」になってしまったのだ。(じぶんの事を愚かだなと思った)

「意味のわからない人間」は、はっきり言ってあまり関わりたくないだろうし、非難の対象になりやすい。私自身も今までで、かなり失礼な事を言われた経験がたくさんある。ある日、そういうデリカシーの無い人間に失礼な事を言われなくなるには「めっちゃ怖い人になる」か「とにかく金を稼いでいる」のどちらかでは?と思うようになった。

 

精神安定のためにはじめた「ちょっと考える生活」

しかし、「めっちゃ怖い人になる」という選択は、単純にそういう人間はわたしの好みではないので即却下した。「とにかく金を稼いでいる」というのも、じぶんの作ったもので食べていきたいけれど、もっと時間のかかることかもしれない。もう少し手軽に、少しの努力や心がけでできる「失礼なやつ撃退法」はないだろうか?と悩んでいるうちに出た答えが、「とりあえず相手を言い負かす」だった。

 失礼な事を言ってくる人というのは、基本的に私の事を下に見ているし、バカにしている節がある。(だからと言って、そういう奴は教養があるわけでもなかったりする)どうして大して話もしていない赤の他人に、一方的に失礼なことを言われなきゃいけないのか。あんたにしたら一回でも、私にとったら毎日なんだよ。

そんな「非難逃れ」から始めた「ちょっと考える生活」だったが、次第に面白さが大きくなってきた。なんせ人と話す時間が増えた。それまで下らない話しか自分にはできなかったのだが、何に対してもほんのちょっと考えるだけで、ここまで会話は楽しくなるのかという喜びと実感がブワッと湧いてきた。

物事を調べるのも、天下のインターネット世代なのでサクッとググって比較したりする程度だ。めちゃくちゃ簡単である。

 

ただのおしゃべりさんから、口数の多い人に。

人とたくさん話す様になって、次第に失礼な事を言われる回数も減った頃、「あなたのその意見は違うのでは?」と思う事が増えた。そのことをどうしてなのか、と考えるがどうも納得がいかない。どうやら「違う」という意見の理由に「私」が存在しないのだ。自分がパッと得た疑問や嫌悪を、じぶんの言葉で説明できないことほど気持ち悪いものは無い。疑問や嫌悪の理由が「誰々がこうだから」とか、「私の友達がこうだから」というのはお話にならない気がする。「そんなの当たり前だろーが」と思われる様なことだが、こんな簡単な事を自覚したのはつい数年前だったのだ。

不快な事はとことん排除していきたいので、何かにつけて「私の中の何が文句を言いたいのか」という言葉をつけて理由を考えるようにした。物事を考えたり意見をもつことにおこがましさを感じていた昔の私が聞いたらかなりびっくりしそうだ。

 

「私にとってはここが疑問だよ」と思う事を伝えるのは、たくさんの時間だったり面積がいる。

自分の意見を伝えるために、意見の内容と同じくらい重要なことは「伝え方」だろう。意見を伝えるために最低限、こういう生活をしているとか、こういうバックグラウンドがあるという事を伝えておかないと、全く違う意見として捉えられてしまう事があるからだ。twitterはいままで通り使っていきたいけれど、もうちょっと意見や疑問があったりしたら、このブログで垂れ流していこうかなとおもう。

一回目の投稿はさらっと短めにしようと思っていたのに、グダグダと書いてしまった。とりあえず米が炊けたので、味噌汁をこしらえて朝ごはんにしよう。